遊体離脱

人に何かを打ち明けた後に死ぬといい。誰かに何かを背負わせることになるかもしれないけれど。

「向いてないって気づいてから、なんかしんどくなっちゃって」と言ったら「そんなことないよ、向いてると思うよー」って言われて余計にしんどくなった。私がどうしてそう思ったと思ったの。理由を聞いてくれてたら私は話しただろうか。

死ぬなら今かなと随分考えた。
もうしばらくは誰にも何も言わないことにしたから。


Syrup16gは私の青春だった」と言ったら「同世代だよね?」と確認された。
私はsyrupを知ってる人に出会ったことがない。
今聴くと10代の頃を思い出す。今よりずっと死にたかった。若かったから。
今も昔もひとりです。


もう更新されなてれない大好きなブログを遡りながら、何処までいけばいいんだろうと考える。
本当は何処にも行く必要なんてないのに、ずっと同じ場所に居たら駄目みたいだから。

いらないものばかりで全部捨ててしまいたいのに、それがないと生きていけないなんて不条理だ。

今日も寝て起きたら1日がほとんど終わってた。

まったくもって不変

誰に何言われてもあんまり気にしたり、傷ついたりしないでしょ? と、言われる。
これは罵られてるのか。
相手にそんなつもりはないと思うけれど。あの人は傷つきやすい人だから。
ただ言外に「他人を軽んじている」というニュアンスが含まれている気がした。

私が誰に何言われても平気なのは環境を大事にしていないからだ。
壊れてもいいし、なくしてもいい。私が直接手を下しさえしなければ。

きっと大事な人に言われたらしっかり傷つくし、気にもする。
でも今はよくわからない。可愛げのない人間だ。

結局のところ、私の世界は私がいなければ成立しない。私は私のいない世界では存在できないし、私が死ぬときは私の世界も死ぬのだ。時は止まらないのに、私はいずれ止まってしまう。
世界とか命っていうのは本当に不思議だ。

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一応ちゃんとした夏休み中なのに学校に行く。行くまでは本当に嫌で嫌で仕方がないのに、行ってからみんなに会うとちょっと楽しい。それが悔しい。「何馴染んじゃってんの。似合わないよ」って自分の中から声がする。知ってるんだよ、そんなこと。

喋りすぎた翌朝

例えば私が誰かに「学校を辞めたいと思ってるんだ」と打ち明けたとする。そのとき、私が望んでいる答えはなんだろう。辞めたい気持ちを肯定してほしいのか、辞めないでと言ってもらいたいのか。私はどちらも確実に望んではいない。
そうなんだね、と受け止めてほしいのか。ただ聞いてくれるだけでいいのか。
肯定されるのも否定されるのも同情されるのも励まされるのも嫌だ。「私にはあなたの気持ちがわかるよ。だからいつでも相談に乗るよ」オーラを出されるのは最悪だ。わかってたまるか。

しかし本当に自分の望む答えを自分で用意することができない。
これはきっと人による。この人からはこういう言葉がほしい。

何かを打ち明けるとき、相談ごとをするとき、ほしいのはきっと相手の意見ではない。私のほしい言葉だけ。だから言う人を選ぶ。しかし慎重に選んでも望む答えが返ってくることなどほぼない。それで失望するのは自分勝手すぎる。相手と私は別の生き物なのだ。

自分が心底悩んでて、それを打ち明けたところで何も楽にはならない。選べるほど知り合いもいない。
何かを言ったとき、それを後悔することが言う前からわかってる。なのに聞いてもらいたいなんて矛盾だ。

私は彼女の望む答えをちゃんと言えただろうか。


夏休みだというのに毎日とても疲れてる。
眠くて眠くて、眠ったらもう二度と目覚めたくない。


きっと落ち込むんだろう。