私の話


真剣に話を聞いてくれる人を大事にしたい。私の話に耳を傾けてくれる人。あえて聞く時間を作ってくれる人。相槌だけで終わらせない人。私の知らない私に気づかせてくれる人。

実はそういう人はあまりいない。
私は途方もないくらいに聞き役だ。誰かと過ごした1日が終わる頃、今日もずっと聞いてたなあ、また私の話はできなかったなあ、と思う。きっと私は聞き上手なんだ、と前向きに考えるようにはしている。けれど私が「こういうことが辛かった」と言えば、「私もこういう思いをして辛かった」と相手の話にすり替わるのはあまり好きじゃい。嬉しいことも然り。そのまま「私の話ができないな」と思いつつも、軌道修正せずに相手の話を聞いてしまう。私は、あなたが私に聞いてほしい話を聞きたいから。じゃあいったい、私の話は誰が聞いてくれるんだろう。

「私の話を聞いてほしい」そう伝えれば、きっと時間を作って真剣に聞いてくれる人たちはいる。でもそれは心地がよくない。心の準備をしてもらってまで聞いてもらうこともない。私が話のしっぽを見せたとき、見逃さずに引っ張り出してほしい。自分の話にすり替えないでほしい。大変わがままで申し訳ない。

でも私が人の話を聞くときに意識していることだ。話をしたがる人は聞いてほしい人。そのときはその人の話に集中する。私の話は挟まない。なんせその人のターンなのだ。

親友は、今日はどんな日だったか、何を思ったか、明日は何をするかなど、とても細かく報告してくれる。聞いてほしいのかな。それとも会話がしたいのかな。いやきっとそういう人なんだ。マメだって言ってたもの。かわいい。たまに返事をサボってごめん。スタンプで終了させてごめん。LINEの返事がないのは寂しいから、私たちは朝起きたら「おはよう」を言い合おうと約束した。
昔読んだ本に、「話す内容よりも、コミュニケーションを図ることに意味がある」と書いてあった。私はどんな内容でも彼とコミュニケーションを図れることが嬉しい。もちろん話す内容も大切だけれど。
今日の晩ごはんの報告でも嬉しい。些細な話をにこにこ聞いてあげる私はやはり聞き上手かもしれない。もちろん親友の特権だ。ただ、親友にも私の話をしたいとはあまり思えない。聞いて聞いてが強すぎる。聞いてるよ!たまにもう聞きたくないよ!「この話がしたかったんだ」と笑顔で言われると、聞いてあげてよかったなって気持ちと理解できない気持ちがぐるぐるする。なんでだろう。少し悲しい。

映像の見える話よりも映像の見えない話がしたい。
過去よりも未来の話がしたい。
理論よりも感情の話がしたい。

いつか私の話も、聞いてほしい人に聞いてもらえるといいな。