モチベーションは底辺だけれどメンタルは安定している。
これが私の通常運転。


4月に行った登山の写真を現像に出した。
片道5時間。1泊2日で山小屋に宿泊。mont-bellでウェアから揃えた。もしかしたら4月にこんな記事を書いているかもしれない。

道は険しくて体はとても疲れたけれど、心が洗浄された。本当にどこを切り取っても綺麗だった。山小屋に泊まるのはもう嫌だけど、この景色をもう1度見たいとは思う。
やっぱり山は良い。日常にはない達成感がある。

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今回はデジタルの写真。

ハローハロー

誰も連れていってくれないから、重い体を引きずって自分で海へ行ってきた。自分のご機嫌は自分でとるしかない。
仕事ばかりしていたら少しだけ気持ちが浮上した。訳がわからなくなったときは無理にでも誰かと関わることも大事だ。その点、働いていれば強制的に人と会うからいい。幸い、職場の人たちはみんないい人だから。とりあえず、海へ行くだけの元気はあったようだ。

私は心が落ち込むと、閉じこもって過ごすよりは、開放的な場所へ行きたくなるのかもしれない。以前行って、とても綺麗だった横山展望台と伊勢志摩スカイラインへ。片道3時間以上かかるけれど、心が行きたがっていたから連れていってあげた。そういえば4月に気持ちが死んでたときは、こちらも3時間以上かけて広島の原爆ドームを見渡せる公園へ行き1日中ぼーっとして過ごした。もちろん日帰り、次の日はお仕事。でも好きな景色の中にいると充電できるものなのだ。

横山展望台ではひとりメロソーダを飲みながら、隣に座ったカップルの話を聞くともなしに聞いていた。彼は寝相が悪いらしい。死ぬほどどうでもいい情報をインプットした。
紫陽花が見頃を迎えていた。梅雨に合わせて咲いたのかな?少しだけどフィルムカメラも使えたし、ファインダーをのぞいてシャッターを切る瞬間は憂いも全部消える。好きな瞬間だ。早く現像に出したい。


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曇ってるし海は遠い。
お腹の調子が悪すぎて、伊勢まで行ったのに何も食べれなかった。

明日にはまたどん底まで落ち込んでいるかもしれない。
本当はもう人生なんてどうでもいいのだ。あと少しだけ頑張ってみるけど。

いつになく、気持ちが落ち込んでいる。仕事が苦しいわけではない。強いていうなら、生きることそのものが苦しくてしかたがない。私が死んだら両親はきっと泣くんだろうな、という気持ちがなんとか私を思いとどまらせている。

気がつけば2時間も3時間も泣いてるし、お腹は空くのにたくさん食べれなくて体重も41キロから37キロまで減ったし、夜は全然眠れないし、朝も早く目覚めるし、悪いことがあるわけではないけれど、良いことがあるわけでもない。これがずっと続くのか、という絶望しかない。仕事を辞めるのを早めてもいいかな、と思っている。けれど行く所もないし、もう誰も住んでいない実家に帰るのか。私は過去に一時的ではあるけれど、メンタルクリニックに通院していたし、精神的な薬も飲んでいたし、地元に帰ったら周りから“やっぱりな”とか思われるんだろうな。周りにどう思われても構わないんだけれど、それは支えがあったらの話だ。今の私には何もない。地元には友人もいないし、できれば帰りたくはない。私のことを誰も何も知らない土地でなんとか6-7年頑張ってきた。かといってこのままここに居続けたくもない。親しくしてくれる人はいるけれど、心を許せる人はいない。誰かに心を許す必要はないのだとしても、どうせ過去がばれたらそういう目で見られるのだし。私の心が、人に対して穿った見方をしてしまう。私自身が辛いだけなのに。

何が苦しいのかはわからないけれど、とにかくしんどい。なんでもない顔をして仕事をするのもしんどい。みんな同じだよって言われるのかな。甘えてるって。

誰かの幸せを喜べないくらい荒んだ人にはなりたくない。
誰か海に連れてってくれないかなあ。
生き方がわからない。