危機管理能力のなさに危機を感じる

この三連休は人生について考えていた。生きることと死ぬことと、人間であること、幸せって?今までずっと生きてきたから、死んだことがないから。未だかつて死んだ人に会ったことがないから。死んだらどこにいくんだろう。生まれる前はどこにいたんだろう。深い、人生の渦にはまってしまった。
どうして幸せにもなれないのに生きていかないといけないの?信じられる人もわかりあえる人もいないのに、信じてるってそういう振りをしないといけないの?
私ではない誰かのことを考えていた。私なんていない気がしている。とても惨めな気分だ。心に取れない染みができて、それをみんなに見られているみたいだ。
利用されていると思うし、利用していると思う。人と関わること全部が。人間の悪いところばかりを見ている。だから悪い人間になるんだろうか。ひとりでいられたら十分なのに。

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背中を押されるとすごいエネルギーをもらえることを知ったのはつい最近だ。文字通り、動作として。言葉はない。「行ってきます」の後の、とん、だけで頑張ろうと思えた。全く知らない人だったけど。力をもらうってこういうことなんだと思った。頼んだよって言われたみたいだった。言葉で頼んだよって言われるよりも何かが伝わってきた。ずっとあの場所に居たら気づけなかったと思う。変わるってすごいことだ。

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芸術的なスノーボード競技を見ながら、人間の形はこのスポーツをするための形だったのだと思った。
かっこいい。実況さんもずっと言ってたね。
「いやーかっこいいですね。渋いですね」

永遠になくならないと思っていたコピー用紙もいつかなくなる

何かあったことに気づいているのに、それに対して「どうしたの」「なにがあったの」と言えないような人にはなりたくなかった。だってあんなにも落ち込んでますアピールされたら。私なんて、なんの役にも立たないとしても。気づいてる人がいることを知らせれただけいいんだと思う。彼女はあれだけ落ち込んでたのに、誰も気づいていないような気がした。

人は不満を誰かと共有しないと不満な生き物だ。どこにいても。ここは健全だと思ってた場所であっても、人と人が関わればそういう話は出る。不満っていうのは自分に対するものとか、生き方に対するものとか、内側に向くものもあるけれど、そんなのはその辺でぺらぺら話したりしない。でも外側に向くものは何処でも話す。そういうのはここへ来てから知った。知らない私がそばにいてもお構いなしなのだ。遠回しに本人に伝えたいんだろうか。

しかし、30歳、40歳の人がハタチの子のことをどうこう言うことはないんじゃないかと思う。嫌だなって思うのは、この人たちってこういう人たちなんだって思ったから?きっと私のことも言ってるんだろうなと思ったから?ただ共感できなかったから?どれにせよ気持ちのいいものではないだろう。だってあれは注意ではない。
私もこの不満を誰かに聞いてもらいたくなってる。

頑張ってても認められないときはどうすればいいんだろう。頑張ったのに方向が違ったときはどうすればいいんだろう。
誰が気づいてくれるんだろう。誰か気づいてくれるんだろうか。
誰もいなくてこわい。

私だって落ち込んでますアピールをしてみたい。

目覚めなくても朝はくる

落ち込んでいる夢を見た。なぜ落ち込んでいるのかもちゃんとわかってた。現実の私の意思が反映されて、夢の中の私は落ち込んでいたように思う。現実の私が言いたい言葉を言うつもりだった。
冷たい夜だった。建物の中にいて、外から笛の音が聞こえていた。その音が聞きたくて私は窓を開けた。夢の中だけどとても寒くて「ごめんなさい」と言いながらすぐに窓を閉めた。挟まったカーテンを元に戻すために、もう一度窓を開けることさえ躊躇うほどの寒さだ。夜の中から聞こえる笛が綺麗とも不気味とも思えた。
泣きそうだった。

あまりの寒さに今日からもこもこの敷きパッドを使うことにした。


唐突に人間は奇妙な形をしていると思った。そして奇妙な乗り物に乗っている。

モラルは人によって違うのかもしれないと思った。正義が人によって違うように。

録画していた相棒のお正月スペシャルをやっと見ることができた。よかったね、と誰かと言い合いたい。